ノーオッケーすぎる

25歳文系大学4年生が、思ったこと・日々の生活などを雑に書きます。

モードを理解すること、自分と他人を受け入れること

高校生の頃、相手によって接し方が変わってしまう自分に悩んだりしたことがあります。「相手によって素の自分を出せない」とか「本当の自分ってなんだろう」みたいな、思春期にありがちっぽい悩みです。そんな悩みをふと当時仲の良かった友達に話したときに、「素の自分とかなくない?」と言われたのです。目から鱗でした。その一言で「あっ、なるほどな」と思ったのです。

 

人にはたくさんの「モード」がある

ちょうどその高校生のとき、受験勉強で現代文の問題を解いていたところ、ある文章が「人は、相手や状況に応じた『モード』をたくさん持っていて、それを取り違えたりしてしまうと致命的なミスになったりするよね」と主張していました。

モードを取り違える例として、例えばカメラマンのお父さんが家族で遊園地に行って家族写真を撮ろうとなったときに、カメラのファインダーを覗いた瞬間に父親としてのモードからカメラマンのモードに切り替わってしまうという事例が挙げられていました。家族はただ単に家族写真が1枚撮れればよかったものの、父親はカメラマンのモードに切り替わってしまったがためにクオリティを求めてしまい、結果として家族が振り回される。そうすることで家族は不満を抱くことにつながってしまった、というわけです。

人が持つモードはこの他にも例えば友達や恋人、家族、職場の同僚など、関係性によって定義されるものもあれば、もっと細かく「Aさんに対するモード」「Bさんに対するモード」など、個人によって対応するモードもあるでしょうし、その他にも様々なシーンに合わせたモードなんかもあるでしょう。まあとにかく、どんな人であれその人には多様な側面があって、その数だけのモードを備えているよね、ということです。

 

自分の多様性を認める

そんなところで冒頭の思春期お悩みトークに話を戻しますと、「本当の自分」とか「素の自分」を求めるということは、スタンダードとなりうる特定の1つだけのモードを探し求めるということと同じなわけで、一方で高校の友人のように「素の自分などない」というスタンスを取ると、人の多様なモードを認めることになります。僕はこれにもっと早い段階で気付きたかったな、と思います。

モードというものが相手との関係性から生まれてくることから分かるように、そもそも人の誰かに対する対応というのは相手あってこそのものですし、それゆえ相手次第で接し方が変わってしまうのは仕方のないことです。そんな中で1つだけのモードをスタンダードとして探してしまうのはあまりに偏った世界のあり方につながってしまいます。

なので、「本当の自分とは」といったアイデンティティ・クライシスに陥っている人は、人間が持っているモードの多様性を理解することと、どのモードが自分にとって一番心地よいのかということを考えれば、かなり楽になるんじゃないかなあと思います。

(とは言っても、こんなことで悩んでいる人は少ないかもしれません…。)

 

他人の多様性も認める

モードの多様性を認めることは、他人との付き合い方も楽にしてくれるのではないか、と思っています。

例えば、他人の「自分には直接関係しない言動」に対してイラついてしまう人というのは、そこそこいるのではないかと思います。友達の「恋人との付き合い方」とか。好きなんだか別れたいんだか不明すぎるし聞いててイライラしちゃう!みたいな。しかし相手の恋人に対する接し方と自分に対する接し方が同じとは限らないですし、そもそも関係性が異なれば相手も基本的にはモードを変えてくるわけなので、本質的には自分には関係ないことだよなあ、と思います。相手の「自分以外の第三者への接し方」が気に食わなくとも、自分には関係ないのだから気にしても仕方ないんじゃないかな、ということです。

それだったら、無駄にイライラしたりせずに、自分と相手との関係以外の部分は、こちらに不都合がない限り認めてあげたり見過ごしてあげたほうが、お互い心地よく過ごせるのかな、と思います。もちろん人間関係は複雑なので一概には言えませんが。

 

相手の「自分と直接関係ない他人に対するモード」を知ったときにどこまで相手を受け入れられるかというのが、優しさの一つなのではないか、と思ったのでした。おわり。