ノーオッケーすぎる

25歳文系大学4年生が、思ったこと・日々の生活などを雑に書きます。

言葉にして認識することの大事さよ

おはようございます。昨日高校時代の全然仲良くもなかった人と飲んでアレコレ話してたらとても楽しかったです。でも今思うとあれはアルコホール・パワーだったのかなあなんて思ったり。うぇ、うぇ~い(三浪私文大学1年生22歳)。

 

そんなわけで高校の人だったり、Twitterだったり、カウンセラーだったり、いろいろな人に会う機会がちょっとだけ増えたりしているのですが、その中で、言葉にして認識するのって大事だなあとよく思わされています。

 

具体的な例を挙げるならば、以前書いた、小学生の頃からずっと母からお金を盗られていたこととか。これも体感的な思い出などを言語化してようやく、母の異常性に気付けたわけです。

 

それから最近のことで言えば、大学の同じクラスのある男子が、「ネタ」や「ノリ」という名目の下で靴を意図的に思いっきり踏んできたりとか、背中を思いっきりパァン!!!と殴ってきたりとか。詳しくはないけどブーツ好きなんで靴踏まれるのちょーむかつく!別にブーツ好きの人じゃなくてもそうだとは思うけど!まあとにかく、小さいから舐められるんですねえ~。ウケぽよ~。

 

で、この話をTwitterなり高校のおともだちなりに話したりすると「クズだな!!」なんて言われたりして、僕は「…あっ」と思うわけです。なるほどな、確かにな、言われてみればそうだよな、と。

 

彼はクラスの中心人物であり、クラスというコミュニティーにおける空気感をクリエイトする立場にあって、僕はその勢いに飲まれていました。でも彼を「クズだ」と認識しそう言ってくれた人のおかげで、僕は彼のクズさを認識することができたわけです。たとえ中心人物であっても、それはクズが許される理由にはならないよね。人類みな平等、みたいな(?)。

 

よく言われることだけど、意外と自分のことって正しく認識するのは難しいんだなあと改めて思わされるばかりであります。そうそう、カウンセラーが話していた「自分が疲れていると分かっていない大人も多いんだよ」という話も、思い出すたびに正しく認識することの難しさを思い知らされます。

 

でもこうして他人と話すことで、少なくとも1人でぼーっと考えてるときよりは正しく認識できるようになるよね。自分が言葉にして相手に話す過程でも言語化されて正しく認識できるようになるかもだし。それに自分ではない存在(=相手)が発する言葉には、多少なりとも客観性があるわけですし。

 

そういうこと考えると、やっぱり人と話すのって大事だなあと思ったりするわけです。ちなみに昨日はおともだちから「友達つくろ?」と言われました。

 

とぅみーろさんはおともだちを募集しています。