ノーオッケーすぎる

既婚ITエンジニアが、思ったこと・日々の生活などを雑に書きます。

誰に尽くせばいいのか問題

こんばんは。とぅみーろです。入社式も入学式も終わり、もう2019年も残すところ3分の2になりそうで、ビビるにビビっています。時は早い。光陰は、マジで矢。

 

というわけで久しぶりに思ったことを書きますね。

 

前に紹介したかもしれませんが。

まだ断捨離が日本を縦断する前、こんまりもだんまりだった2012年頃、ライフハックをバイブルとして、浪人という闇をインターネッツという光で照らしながら彷徨っていたところ、おそらくミニマリズムブームの火付け役となったアメリカのミニマリストのページにたどりついてですね。そこに、幸せの定義として以下が書かれていました。

Happiness, as far as we’re concerned, is achieved through living a meaningful life: a life filled with passion and freedom in which we grow as individuals and contribute beyond ourselves. Growth and contribution: those are the bedrocks of happiness. Not stuff.

(訳)我々が考えるに、幸福とは、有意義な生活を送ることで達成されるものである。有意義な生活とは、情熱と自由で満たされ、個々人として成長し、自分以外の人間に貢献することである。成長と貢献――これらこそが、幸福の礎である。モノではない。

www.theminimalists.com

こんな明確な幸せの定義なんて初めて見たので、すごいことを考える人がいるものだなあと感心してしまいました。あれから数年経ちましたが、いまだにこの一文は忘れられず、脳内ストレージに刻み込まれています。

 

そんな数年の間にいろいろ経験したりしなかったりして、確かに他者貢献というのは逆説的でありながらも意外と自分の幸福度を高めてくれるなあと、感じています。

一方で、必ずしも他者貢献が自分の幸福度を高めるとも限らないなあと感じています。もっと正確にいうと「他者貢献すべき人」と「他者貢献することで自分に幸福をもたらしてくれる人」というのは、必ずしも一致しない、ということです。

 

その一例を昔ブログに書いたなあと思い出したので、恥を忍び、心を殺し、頭を垂れながら引用しますね。これは僕が4年前に書いた記事で、そんな「他者貢献すべき人」と「他者貢献することで自分に幸福をもたらす人」が一致しない例としてわかりやすいかなーと。

姉が大学生のとき、確かフィリピンかどっかにボーランティーアしに行ってたんですけど、今こうして自分自身が大学生になってみると「行動力やばぽよかよ…」って思うんですけど、当時僕自身は高校生で、しかもやさぐれハートの持ち主だったもんで、「家に帰ってきて食べ物がないとすぐ不機嫌になる人間のくせになーにが海外ボランティアだよ。まずは身の回りの身近なところから変えてみろよ」って思ったんです。スケールの小さい世界で立ち回れない人がスケールの大きな世界に行くのはおかしい、という、インターネットですぐ見つけられそうなタイプの批判です。

でも、そんなことないですよね。確かにわざわざ海外に行ってまでボランティアするぐらいの人間なら、もっとスケールの小さな世界でも立派な人間であることが前提としてあってもおかしくない、もしくは当然であることのようにさえ思えます。でも実際そんなことなくて、姉は家というレベルの場所にわざわざリソースを割くよりも、興味がある海外でのボランティアにリソースを割いたわけです。ただそれだけだし、しかもそれは別に悪いことじゃない。「帰宅して食べ物がないと不機嫌になること」と「海外でボランティアをすること」との間には、なにも矛盾する要素はない。

こういった「一見すると段階をステップアップで踏んでいかなければならないように見えること」というのは生活の色んなところでちょいちょい存在するように思います。でもそれが本当に段階的な構造である必要があるのか、ということを検討する余地はあるんじゃないか、と思いますです。別に良し悪しの判別を含まないことであってもね。

雑記:disると人はすぐしぬ、段階を踏む必要はあるのか、マジレスすると人はすぐしぬ、の3本です - ノーオッケーすぎる

 この記事では姉の話を「何かをするときに必ずしも段階を踏む必要はない」ということを言うために使っていますが、今回は伝えたいことはそうではなくて、あくまで他者貢献して自分が幸せになれる相手は、必ずしもパッと考えたときに思いつく他者貢献すべき相手とは一致しないのではないか、というお話です。

 

たぶん、姉にとっては、家族のために頑張るよりも別の国で生きる貧しい子供のために支援活動をしたほうが幸せだったのでしょう。ただそれだけです。でも、改めて状況を整理してみると、うちはお金もなくてそれなりに貧しかったし家族関係もギスギスのギスだったので、そんな身近な家庭環境の改善よりも、わざわざ高いお金を積んでまでして海外に出て、他国に生きる知らん子供を救うことのほうがよっぽど急務だったのか?という疑問が出てきます。

 

しかしこれ、ちょっとストレスになると思うのです。なぜならば、自分が尽くしたいと思った人に尽くしたにもかかわらず、「そんな暇あるなら○○に尽くしてあげなよ!」と言われる可能性があるからです。

 

自分の家庭環境の改善に取り組むことも、貧しい子供を救うことも、どちらもいいことであることに変わりはないなので、僕としては「どちらでもいいはずでは??」と思ってしまうんですよね。優先順位を考える必要はないというか、そこまで徹底した善人になる必要はないというか。

 

友達、恋人、後輩、親、子供など、自分自身を中心に様々な関係がある中で、「友達より恋人が大事!」のような、自分の中でどの関係性が最も重要かというのは人の価値観によって違うとは思いますが、そういった自分の中での“当たり前(=友達より恋人が大事!)”にとらわれすぎてしまって、自分の幸せにつながる貢献相手を見失ってしまったらもったいないなあと思いました。

器用な人ならそのへんうまいこと立ち回ったりしてできるんでしょうけど、僕の場合はもう1回地球にマンモスが現れるぐらいの時間がないとできそうにないので。。

誰に貢献するかも、「べき論」ではなく、自分が幸せになれるかどうかで選べたら、そして周囲からも特定の誰かに尽くすことを是とする「べき論」を押し付けられずに済むぐらい、自由になったらいいなあと思ったのでした。

 

どんなにつんけんした人でも、誰かにプレゼントをあげたりちょっとした親切をしてあげて喜ばれたり感謝されたりすると、たいてい嬉しくなっちゃうし、他者貢献で幸せになれるというのはほぼ確定的な事実、割と人類全員に当てはまる法則だと思うのです。それが幸福のすべてを説明するわけではないけど、一役買ってくれるぐらいの存在ではある。はず。

とはいえ、他者貢献自体を重視しすぎて自分の幸せをないがしろにしないように注意したいし、もっと自分のために生きたいなあと思った木曜の夜でした。